一九六九年四月、ビアンクールのルノー本社を訪れた。
ときの総裁のインタビューと工場見学をするためだった。
広報マンとの事前打ち合わせを終えて、雑談をしていた。
話題がなんとなく日本とフランスの国民性にふれたとき、突然、彼は「われわれは農民だから」といった。
これが、フランス人と接触して、ビジネス以外ではじめてのやりとりであった。
そのとき使った「農民」という単語も、farmerでなく 、peaSantだったfarmerなら画家ミレー描ところの『晩鐘』の農民を思い出すのに、peaSantではイギリスで起きた農民一校を思い出してしまった。
その連想が正しいのかどうかは別にして、広報マンがそういうのは意外だった。
同時に、謙虚な社風なのだなと思った。
これが、ルノーの一印象であった。
あれから三〇年たった。
日産・ルノー資本提携発のあとのインタビューで、「日本企業は、とっつきにくいのではないですか」と質問した。
シュバイツァー会長の答えは、「われわれはすでに、日本企業と連合を組んでいる。
ルノーの子会社でSMIというステアリングの会社があって、光洋精工(トヨタ系)の合弁で技術指導を受けている。
これが成功しているので、違和感はなかった」と。
これも、「違和感はない」というところが意外だった。
書アジア危機が絶好のチャンス一九九二年五月、ルノー会長に就任したL・シュバイツァー氏は、東西の冷戦構造が崩れたとき、自社の経営体制の根本的な見直しをはかった。
みずからの商品の市場が、あまりにもヨーロッパに偏っていることに危機感を抱いたのであった。
たとえば、九八年のルノー卓の販売先をみる。
この年、ルノー一〇〇年の歴史で史上最高の業績を記録、全社界で二一三万台もの商品を売りさばいた。
ところが、である。
その八八%がヨーロッパ向けだった。
ヨーロッパ以外の市場には、わずか一二%しか売れていない。
明らかに、ヨーロッパ偏重体質であった。
グローバル企業をめざす彼はヨーロッパ以外の地として、まずアジア地域に白羽の矢を立てた。
たしかにアメリカの胃袋は、大きいことは大きいがもはや慢性的消化不良ぎみだったし、それになによりルノーのブランド・イメージは、アメリカではきわめて乏しかった。
おりしも、アジアは経済危機に直面していた。
株価も下がり、総じて資産価値も大幅に下落していた。
このときこそ、アジア市場をねらうチャンスだったと、シュバイツァー会長は考えていた。
は九八年1四半期には、明らかに固まっていたと思う」と。
その具体的な構想が、いわゆる「戦略目標展開計画」だった。
ルノーの中期計画である。
それによると、二〇〇二年から三年を目標に、全世界に二五〇万台販売する計画だった。
ところが、その後まもなくシュバイツァー会長は、その目標を大幅に修正した。
それが、「二〇一〇年、全世界販売四〇〇万台」だった。
この大胆な量的な計画に、もうひとつきわめて重要な質的な条件がついていた。
その四〇〇万台の販売先を、「ヨーロッパ地域‥五〇%、非ヨーロッパ地域‥五〇%」にもっていくことだった。
この「非ヨーロッパ地域‥五〇%」とは、いうまでもなく東欧、中南米、アジアである。
このなかで、東欧は、九七年一二月、ア77ラモス工場で生産を開始し(ア九八年九月、ブラジルにアイルン・セナ工場を完成、九八年末、生産を開始した。
セナは、いうまでもなくルノー・エンジンを搭載したFlマシンの天才ドライバーである。
その名を冠したこの新工場は、ルノーにとって八〇年以来、初の海外工場となった。
総工費は、六億七〇〇〇万ドル(約八〇〇億円)。
生産システムは、カンパン方式をフルに取り入れたコンパクなつくり、だからじつにリーン(筋肉質)体質だ、と現場はいう。
敷地面積十万平方メ1トル、そこに工場建屋は、四つしかない。
ボディ工場(三万六〇〇〇平方メ1トル)、塗装工場二万六〇〇〇平方メ1トル)、組立て工場(二万五〇〇〇平方メートル)、部品企業四社が、シー、コックピッ、アクスルなど七種の主要コンポネンを組み立てるサプライヤーズ・パーク・ビル二万五〇〇〇平方メ1トル)である。
生産車種は、人気車種のメガヌ・セニッタ、すでに九九年二月に発売した。
生産計画は、つぎの通りである。
一九九九年‥年産三万台。
一シ7、日産一〇〇〜一五〇台。
二〇〇〇年‥年産六万台。
車種は、セニッタ二万一〇〇〇台、二ボックスクリオ七〇〇〇二〇〇一年‥年産一二万台。
三シフ体制。
さらに、二〇〇二年には、1億ドルかけたエンジン工場の建設計画もある。
これら一連の工場づくりは、いま稼動中の外国の自動車会社のブラジル工場(〓工場)のなかでは、VW、GMにつづく三位の規模である。
残るアジアは、ルノーにとってもっとも苦手とする市場だった。
風土も、文化もちがいすぎる。
しばらくは、二の足をふんでいた。
いまにして、ドゥアン氏はふり返る。
「四〇〇万台計画達成にはアジア抜きでは考えられない。
しかし、ここはルノーにとってもっともむずかしい市場なのだ。
われわれがこの計画全体を加速させるためには、現地企業を買収するか、あるいはなんらかの形で再編にもっていき九八年四月、ドゥアン氏中心に小人数の戦略チームが結成された。
日産では、まだ塙社長が具体的な世界再編の可能性を考える前だった。
ルノーチームの同メンバーは、その年四月から六月にかけて、韓国と日本の自動車メーカーを訪問した。
まず訪れたのは、現代自動車だった。
ついで大字自動車、そして最後に当時の三星自動車の各首脳に会った。
この三社は、結果的には、いずれもルノーの期待に沿うよくな反応ではなか乱BMそのあとが、日本である。
ドゥアン氏は、トヨタ、本田、日産、三菱の四社を訪れた。
ところが、前二社はまったく関心を示さなかったという。
この二社の経営者は、このころ「わが社は、世界再編については独立独歩でいく」と、意思示していた。
三菱首脳は、「協力はOK、連合はNO」(OKforcooperation}notforaEance)といった。
こころは販売協力、技術協力なら力は惜しまないが合弁、資本提携を含む再編は望まないということだった。
もっともシュバイツァー会長のほうにも、三菱を敬遠する理由があった。
資本提携が成立した日の記者会見のあと、会長はインタビューに応じた。
私は、「日産と三菱は同じような環境にありながら、なぜ三菱には声をかけなかったのですか」と質問した。
そのときは、前述の理由は述べなかったが、きわめて印象的な答えが返ってきた。
「三菱自動車はバックが大きすぎる」と。
いかにも手に負いかねるといいたげな情だった。
じっは、ダイムラーC社も同じ思いをもった。
日産と交渉を打ち切った同社はあらたにアジア戦略を立てるべく、今度はかねて関係のあった三菱と交渉をはじめるのではないかとうわさされていた。
筆者自身は、このコンビにはあまり賛成ではなかったが、ダイムラーC社も気乗りしない理由のひとつが、そのバックの大きさだった。
海外からみると、やはり東京三菱銀行、三菱商事、三菱重工の強力グループの存在は、脅威に映るのかもしれない。
ルノーは、日産に資本提携の可能性を提案した。
六月十日、正式交渉の碁は切って落とされた。
場所は東京であった。
両社交渉役の窓口は、ドゥアン氏と鈴木裕取締役企画室長であった。
以降、両社幹部による事業提携の可能性が検討された。
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